日常生活。
セックスレス期の平凡でつまらない日常生活の話。
セックスレスになったのは2人目の妊娠が発覚してからだ。
正直、
「これで終わった」
という記憶しかない。
一人目は苦労したが、二人目は普通に妊娠した。
本当か、噂か、嘘か妊娠するポイントを掴んでいたからだ。
今回は本題と逸れるからこのポイントには触れないが、過去~現在を書き綴ってきて墨色だったセックスレス時代の日常生活を思い出してきた。
つまらない内容になるはずだ。
それでも書くのは、子育て中の日常生活の中に、老いてもなお夫婦でいられるヒントがあると思うから。長く続く秘訣ともいうべきか。
妊娠中、嫁はセックスを求めてこなかった。そして、俺の性処理を心配する様子もなかった。
一人目の子育てと、二人目の出産でいっぱいいっぱいだったからということもあるだろう。
俺はマスオさん状態だったが、嫁には義母という強い味方がいてストレスも無いように感じた。
子育てをしながら嫁は娘にもなっていた。
義母がいてくれたおかげで嫁が不機嫌になったり鬱っぽい感じになることもなく、子育ては順調だった。
セックスレスを感じるのは二人目を生んだ後、しばらくしてからだった。
ふたりの子供がいるから家の中は明るい。
夫婦の会話もあるが、話題は子供中心だ。
まぁそれも悪くない。
話題に事欠かないのは良いことだ。
そんな時にふと、
「子供が家を出た後、我が夫婦はどうやって生きていくんだろう」
こんな風に思うことが増えてきた。
当時、セックス恐怖症状態だった俺には、セックスレスはちょうど良い環境だったが、夫婦の会話が無いことからわかるように、子供が大きくなった時のことを考えると、将来は墨色だった。
セックスレス期は
出産→引越し→新生活
が一度に進んでいたため、実に慌ただしい毎日を過ごしていたように思う。
俺は朝起きて仕事へ行き、帰ってきて子供と遊ぶ。そして寝る。
そんな平凡な日常に満足していた。
子あり夫婦のセックスと言えば、寝室での行為というイメージもあるだろうが、新居に移ってから現在まで川の字で寝ている。
|嫁|子|子|俺|
という並びだ。
セックス恐怖症の俺にとっては実に平和な状態だ。
嫁も子育てや、義母から離れたことによる日中の疲れもあってか、夜は子供に合わせて比較的早く床に就いていた。
幸い良い子育ての始め方ができて、新居に移ってからも比較的安定した子育てができているように思う。
ただ、エロとは程遠い生活。
この新居でセックスをするのは、引越しから何年も経ってからになるのである。
こんな平凡でつまらない日常生活の中で、エロい場面があるとすれば授乳。
子供を産んだら母親の乳は公共化する。
そんな風に思うようになった俺は、嫁が乳を出して子供に授乳させている場面を見ても興奮はしなかった。
公共物だから見てもなんともないし、見られてもなんともない雰囲気を嫁は出していたのだが。
公共物という表現はするが、屋外で赤の他人に見せるようなことはない。
この時期は、堂々と乳首の色、形なんかも見入ることもできたはずだが、無意識に目を逸らすようにしていた。
今思えば、乳首が立ってたり、母乳が染みてたりとまぁまぁエロ要素はあったわけだ。
貧乳な嫁の人生の中でも一番の巨乳な時期でもあったと思うが、全く記憶にない。
その後、嫁への痴漢癖は開花したが、この時の俺の視姦癖は開花しなかったようだ。
まぁ、下着なんかも機能的で楽なものに変わるし、エロいブラを付けることもない。
嫁は細身で体型も崩れなかったが、それでも興奮ポイントは減っていく。
見た目で「おっ!?」と思うことが減れば当然と言えば当然だろう。
日常にあるエロシーンは授乳期だけではない。
風呂だ。
風呂に入るようになると、夫婦の裸が子を通して公共化するようになる。
子が一人で風呂の出入りができるようになるまでは、風呂の出入りで夫婦一方の裸を見せることになるからだ。
子が小学校に上がるくらいまでは少なくともこうした時期はあるだろう。
複数の子がいればその分だけこの期間は伸びる。
俺から見た嫁の裸、嫁から見た俺の裸。
それぞれの裸はオープンになっているが、目線の中心は子供。だから、互いの裸に目線をやることはない。
とまあ、子供が生まれた後の日常生活にもエロ要素はあるのだが、セックスレスになってしまうときっかけも日常に飲み込まれてしまう。
もともとセックスはしたくないと思ってしまっていたから、俺は意識的に目を逸らしていたわけだが。
他人のセックスレス期間の日常生活なんて、全く面白くないな。
この辺にしておこう。
これは今から7~8年ほど前の話。
当時は嫁がかがんで何かをしているときでも、胸チラをしているときでもスルーしていた俺。
今では、背中を向けている嫁の尻にチンコをあてがうこともするし、胸チラを見れば乳首を触りに行く俺がいる。
これがセックスレスを解消した今の日常生活。
こんなくだらない日常生活の中で良いことがあったとすれば、
子育てに参加していたこと。
嫁が満足する参加方法なんてない。
父親として参加する意思を持ち、極力母親の意に沿うように参加することをお勧めする。
しかし、父親(夫)は母親(嫁)から褒められることを期待してはいけない。
子育ては見返りを求めて行うことではないからだ。
母親が子供にそうであるように。
父親として大事なのは、母親と同じ、無償の愛情。
こんなブログには不釣り合いなまじめな話。
多くの夫婦、特に夫側には勘違いがある。
それは、見返りを求めて行動すること。
母親との意識の乖離が出てしまう原因はこれだと思う。
子育てを積極的に手伝うことは紛れもなく正解だと思う。
しかし、それは母親が求めるレベルの範疇であったほうがいい。
個人差はあるだろうから、母親が求める父親の守備範囲を超えないようにすると母親のストレスも軽くなると思う。
そう、ストレスは必ずあるもの。
それから、
「やってやった感」
これを出してはいけないと思う。
母親である嫁が夫にやってやってる感を出してきたとしてもだ。
これは「嫁の尻に敷かれろ」なんて軽々しい話ではない。
また、「男はだまって我慢しろ」という話でもない。
本質的に、母親はやってやった感を出すために、子供から褒めてもらうために子供を育てているわけではない。
繰り返すが、個人差のあることだから一概には言えない。
俺からアドバイスをするとしたら、
「出産から子育て初期までは、夫婦の関係に一生の傷が残るから気を付けろ。」だ。
この時期をうまく過ごせれば、近い将来訪れるであろう夫婦の時間を再開するときに違いが出るはずだ。
夫婦は同志。
子育てという人生の一大イベントをいかにして乗り切るのか。
俺なりの表現をするならば、まさに同志だ。
子育て期に”本質的に”同志だと思える過ごし方ができれば、老いてもなお夫婦としていられるのではないかと思う今日この頃。